ブログという庭を見て、道端や自分の庭で話に花を咲かせる私たち
昨日の炎上と釣り宣言や、アイドル(シンガーソングライター)刺傷事件をきっかけに、興味深いブログ論・ネットコミュニケーション論がはじまっているので言及してみましょう。
ブログの書き手と読み手は、一対複数。 なのに複数の読者を十把一絡げで扱うから良心的な読者すら突き放してしまう。 ブログを見下すのもいいですがね。 論理的な知見があるわけでもなく、 具体的で新しい意見もない。 無理に燃やしてあと釣り宣言 いくらなんでもやり方がまずい。 手前はいいかもしれないが、 何も考えず読んだ人らが可哀想。 いや、もう、ほんま。
「片手間で書いたブログに必死すぎwww」アピールが流行の兆し - あざなえるなわのごとし
いまの世の中では、ネットで不特定多数の人と対話していったり、議論を深めるのは、今回の事件の加害者のような「ストーカー気質の人」に期待を持たせてしまうリスクが高すぎる。 中途半端なやりとりをして、途中でシャットダウンするよりは、最初から「相手にしない」ほうが安全です。 「無視された」と怒る人はいるだろうけれど、最初から無視してしまえば、そして、多くの人にそういう態度をとっていれば、今回の事件のような極めて強い悪意の矛先が自分に向くことは、回避できる可能性が高い。 この件について、非表示になっても何年も言い続けているブックマーカーたちの執拗さをみると、その判断は、間違っていないような気がします。普通の人が致命的に傷つけられるには、ひとりの悪意で十分なのだから。
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別に誰が高学歴で専業主婦をやろうが研究者になろうが、問題点はそこじゃない。やる気のある人間が平等に同じ土俵に立つことが出来ない。経済的な問題が絡んでくる、ここが論点なはずではないでしょうか? 元の記事を読んでいても、京大と同じくらいの高学歴層が養護したり、それよりちょっと下のやっぱり高学歴であろう人間が脊髄反射的に批判したりすることのほうが目立っています。
今回の件に関して、脊髄反射的な批判や意見、または同じ高学歴の立場からの考察が多く、そしてそれは決して無駄な時間ではなかったのではないかと私は考えています。
表現しただけが値打ちになる。嘲られたとしても、表現しただけがその人のまぎれもない人生になる。 論文も、短編小説も、批評も、日記も、バカ度を公開することでしか、できない表現がある。
安っぽい記事で、自分のバカ度を公開しておく意味 - 星の動く音がうるさい
ブログはいわば、公道に面した庭のようなもの。
人の庭の花を見て、きれいだとか季節外れだとか話すのも自由。
そしてはてブコメントは、はてな村民に与えられているどこでも設置可能な掲示板のようなもの。庭の道端の掲示板で議論し合うのも、自分の庭で同種の花を咲かせるのも、それもまたよきかな。
私はネットに咲く花々が大好きです。
みなさん今日も、素敵な花を咲かせましょう。
本日は蒸し暑いですね。庭の手入れをしようと思ったのですが家の中の家事に切り替えてまいります。それではよい一日を。